森下一丁目町会は戦後間もない昭和22(1947)年春から活動を開始しています。昭和20年3月10日には東京大空襲に見舞われ、森下を含む下町一体は文字通りの焼け野原となりました。終戦直後は町会活動どころか、まさに生きるために精一杯の日々だったことでしょう。
それが終戦後から日本は奇跡的な復興を遂げ、森下一丁目もわずか2年弱で町会活動ができるまでになったのは、これまた「奇跡の復興」と呼べるかもしれません。以来、80年近く、町会長は現会長まで数えて16代、町会活動に関わった人々は歴代で数えれば数千人は下りません。
わが町森下一丁目のために多くの住民たちが力を尽くしてきた歴史――他の多くの町会に負けず劣らず、森下一丁目町会の人々は強い地元愛に溢れています。それこそが、古き良き下町気質をこの町に今でも色濃く残す要因なのです。
■深川発祥の地 森下
徳川家康が天正18(1590)年に江戸へ入ってから間もなく、行徳から江戸へ塩の輸送路として小名木川が開削されました (家康江戸入府の年は、かの天正遣欧少年使節が8年ぶりに帰国した年でもあります)。時を同じくして、摂津国(今の大阪府)から一族を引き連れ江戸へやってきた深川八郎右衛門は、現在の森下一丁目附近を拠点にこの地の開拓を始めます。
当時、徳川家康が狩りに訪れ、八郎右衛門に地名を訪ねたところ、特に名前がついてなかったため「汝の留字をもって地名とせよ」と述べたことで、慶長元(1596)年より深川村と名付けられました。
■「森下」の由来
江戸初期の深川村は漁師町でしたが、寛永元(1624)年に永代寺が、寛永4(1627)年には富岡八幡宮が創建され、万治2 (1659)年には両国橋が架橋され、付近一帯には町家が立ち並び門前町や岡場所ができるなどして急速に都市化しました。
当時、現在の深川小学校付近に備前唐津藩小笠原佐渡守の屋敷地があり、ここに家康の重臣である酒井左衛門尉が下屋敷を構えていました。邸内に茂る樹林の見事さは、まさに森。周囲の家々はその森の下に広がるようであったことから、「森下」と呼ばれるようになったと伝えられています。
その後、江戸期から明治期にかけては、深川上森下町、深川北森下町、深川南森下町、深川西森下町、深川東森下町など様々な名称が生まれては消えています。

「森下町」の文字が見られます。 東京都公文書館収蔵 資料ID 000101091
森下一丁目の北西部は、江戸時代は深川六間堀町、明治初頭からは深川北六間堀町、深川南六間堀町、さらに深川東六間堀町、深川西六間堀町と呼ばれていました。新大橋通り沿いのセブン-イレブンのあたりです。
幕末図絵によると、森下一丁目は当時「南六間堀町」「北六間堀町」「北森下町」の三つの号に区画されていたようです。上述したことと一致していなのは地名の変転による混乱かもしれません。どなたか郷土史に詳しい方、ご教授いただければありがたく存じます。
なお、北森下町は明治5(1872)年に深川東森下町と深川西森下町に分裂、町名としては消滅しました。
■深川神明宮
森下一丁目町内に鎮座する深川神明宮。「神明さま」の愛称で地元の人々に親しまれていますが、実はこの神明さまを建立したのも、深川を開拓した深川八郎右衛門でした。遠く故郷を離れてこの地へ移り住んだ八郎右衛門は、深川村が誕生した慶長元(1596)年、自宅の敷地内に小さな祠を建てて伊勢神宮のご分霊をお祀りしました。これが深川神明宮縁起=誕生の由来です。

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